師はウツボカズラ!? 「滑る表面」の技術から水系離型剤を製品化―日本化学会第73回化学技術賞 花王【受賞技術から見える未来】
2025/08/05生き物の持つ、生きるためのさまざまな仕組みを私たちは活用しています。近ごろ、「滑らせる」仕組みを持つ植物からヒントを得て表面に物体を付きにくくする技術を、サステナブルな素材を用いて花王の開発チームが生み出しました。2024年に日本化学会の第73回「化学技術賞」を受賞したこの技術が生み出された背景や技術がもたらす価値について、花王テクノケミカル研究所チームリーダーの長谷川嘉則さんに伺いました。
「滑らない」ことで起きる課題に立ち向かう
「滑る」というのは、とても身近な物理現象です。滑りすぎるのは困りものですが、身の回りには滑りが悪いせいで引き起こされる課題もたくさんあります。
例えば、壁面などに付着する鳥のフンなどの汚れは、するりとは滑り落ちてくれないため、除去のコストが掛かり、高所での作業の場合清掃時の安全性もままなりません。また、冬場の雪国では信号機や道路標識に付着する雪が滑らないため、交通安全を妨げるきっかけになります。ほかにも、型枠を使った成型加工の現場では、流し込む樹脂やゴムが型から滑り出ずに張り付くことが生産性の悪化や、メンテナンスにかかるコスト増の原因になっています。
異なる物質がくっつかないようにする「付着抑制技術」として、撥水加工があります。表面に微細な凹凸構造を作ったりフッ素加工を施したりすることで液体を弾くこの技術は、市販のヨーグルトの蓋やフライパンなど、日常のあちこちですでに応用されています。
しかしながら、撥水加工には、高い防汚機能や付着抑制機能がある一方で、傷や粘り気の強いものに効果が弱いという課題があります。また、撥水加工によく使用されるフッ素化合物については環境への影響も懸念されています。「撥水の弱点を克服できるような全く違うアプローチの付着抑制技術が、表面を『滑らせる』技術なのです」と、長谷川さんは説明します。
食虫植物に「滑る表面」を学ぶ
水分をはじくのと違って、表面に接する物質そのものを滑らせる「滑液表面」を用いた付着抑制技術のお手本となったのは、ある植物でした。
「ウツボカズラという食虫植物は、アリなどの虫を滑らせて罠へと落とし、捕食します。表面をよく見てみると、微細な凹凸構造があるところに潤滑液がしみ出ていて、この仕組みが滑る原因になっています。構造を模倣し、SLIPS(Slippery Liquid-Infused Porous Surfaces)と名付けられた技術の先行研究が2011年に発表され、注目を集めていました」

図1:ウツボカズラの捕虫器
とはいえ、先行研究にも課題はあったと、長谷川さんは続けます。「一つは潤滑液を表面にとどまらせる持続性や耐久性に弱さがある点。もう一つはコーティングして表面を作る際に有機溶剤を使うために使用場面が制限されることでした」
耐久性の高い滑液表面を作るために、開発チームが着目したものがありました。それは、セルロースナノファイバー(CNF:Cellulose nanofiber)です。木材などの植物から得られる繊維を数ナノメートルサイズまで細かくほぐしたバイオマス素材で、繊維の緻密な構造によって内部に液体を保持する力が高いことが知られています。
花王ではすでに別の用途でCNFを使いやすくコントロールするための技術研究が進んでいたことから、これに潤滑油を保持させることができれば、じわじわと潤滑油で覆われ続ける滑液表面を作れるのではないかと考えたのです。
油となじみにくいCNFに「油を保持させる」という挑戦
CNFは水に馴染みやすく、油とはなじまない性質を持っています。しかし、滑液表面をつくるには油を保持する必要があります。このため、CNFの「油との相性の悪さ」というハードルをどうにかクリアしなければなりません。
ここで開発チームが活用したのが、すでに花王で研究されていたCNFの表面疎水化技術でした。この技術により、CNFの表面を油と馴染みやすい疎水化CNFに改質することができました。
さらに、CNF自体が乳化剤として働く特性を活かし、油を乳化させた結果、疎水化CNFが油を包み込んだカプセルのような構造を作ることができました。
こうして「油との相性の悪さ」を克服したコーティング剤を開発するに至りました。スプレー等で簡単に塗布することができ、乾燥させた表面には油を保持したCNFカプセルが何層にも重なったような膜を作っていることも顕微鏡画像から確認できます。

図2:疎水化CNFを用いたコーティング剤。
カプセル状のCNFが積層した膜の電子顕微鏡写真とイメージ
(画像提供:花王)
実際にこのCNFカプセルでできた膜は、水滴を小さい傾斜で滑らせることができ、滑液表面を形成していることを確認しました。さらに応用展開を見据えて、チームはアドベンチャーワールド(和歌山県白浜町)の協力のもと検証実験をしています。「製作したコーティング剤を塗布した板を、鳥の飼育小屋に設置しました。どうしても板を傾斜させることは必要になるのですが、塗布した板に落ちた鳥のフンが滑り落ちる様子をしっかりと動画に収めることができました」と、振り返ります。

図3:鳥の糞の付着抑制効果の検証。アドベンチャーワールドにて実施
(画像提供:花王)
ユーザーのニーズをつかんだ先の、実用化
新たなコーティング剤による滑液表面の開発成功を花王が公式発表したのは、2021年秋のこと。さまざまなユーザーとやり取りをする中、2年半後の2024年春、意外な用途で製品化をすることになりました。離型剤「ルナフローRA」です。「ものづくりの現場で、型枠に流し込んで固めた樹脂やゴムなどを取れやすくするために塗布するものが離型剤です。通常、この離型剤は有機溶剤系が多く、フッ素化合物を使用しているものもあります。しかし、環境や作業者への負担を軽減する観点から、ユーザーは脱有機溶剤・脱フッ素でありながら性能の高い離型剤を求めていました」
ルナフローは、有機溶剤ではなく水系のコーティング剤です。塗布するだけで簡単に使用でき、CNFカプセルで形成された膜の上に薄い油の層を作ります。このため、既存の離型剤ではうまく剥がれないような樹脂でも、ルナフローを使えば型に樹脂が残ることなくきれいに取れ、また塗り直さずに複数回連続で型を使用しても効果が持続することが期待できます。実際に、ユーザーからは「離型性が良く生産性が向上した」といった声や、「現場でルナフローのファンになっている人がいる」との声を聞いていると長谷川さんは笑顔で話します。

図4:樹脂離型前後での型枠表面の比較
(画像提供:花王)
離型性・持続性の向上へ「環境によい方法」を意識して
花王の開発チームは、ウツボカズラの持つ付着抑制技術に着想を得た滑液表面に対し、CNFというサステナブルな先端材料の技術を加えることによって、環境にも人体にも優しい水系のコーティング剤を開発しました。さらに、研究にとどまらずしっかりと製品として成果を世に送り出しました。これらの点が今回の受賞に至った大きなポイントだったに違いありません。
開発チームは一方で、これからさらに高みを目指そうと前を向いているようです。
「よりよい離型性、よりよい持続性に向けて、改良の余地があると思っています。離型剤以外の用途についても、例えば屋外での使用に耐えられるように塗布膜の強度を上げるなどして、実用化を目指したいと思います」
身の回りには「滑らない」ことで起きる課題がたくさんあります。それだけに、滑液表面という技術が持つ可能性はまだまだあるはずです。長谷川さんは前を見据え、こう話を締めくくりました。
「世の中の課題が一つでも多く解決できるように、それもできるだけ環境によい方法を意識しながら進めていくというこだわりを、これからも開発チームとして持っていきたいと思っています」
参考文献
- 花王 2024年12月24日発表「日本化学会第73回『化学技術賞』を受賞 環境配慮型の付着抑制技術-疎水化CNFの乳化を活用した水系コーティング剤」
https://www.kao.com/jp/newsroom/news/release/2024/20241224-001/ - 花王 2020年6月5日発表「セルロースナノファイバーの疎水化技術を活かし、複合高機能樹脂『LUNAFLEX(ルナフレックス)』の提供を開始」
https://www.kao.com/jp/newsroom/news/release/2020/20200605-001/ - 花王 2021年10月27日発表「塗布するだけで付着せずにすべり落ちる表面を作り出す新たなコーティング剤の技術を開発」
https://www.kao.com/jp/newsroom/news/release/2021/20211027-002/ - 花王 2024年4月10日発表「“すべる表面”を持続させる水系離型剤『ルナフロー』発売」
https://www.kao.com/jp/newsroom/news/release/2024/20240410-001/
化学技術賞とは
公益社団法人日本化学会は、日本の化学工業の技術に関してとくに顕著な業績のあった人に「化学技術賞」を授与しています。個人を対象としますが、同一業績について5名以内の連名で受賞することができます。「化学技術賞」は同会が表彰している11種類の賞のうちの一つです。
本田 隆行(ほんだ たかゆき)
科学コミュニケーター 神戸大学大学院 自然科学研究科 地球惑星科学専攻修了(理学修士) 。大学時代の専攻は地球惑星科学。大学院時代に探査機「はやぶさ」理学ミッションに携わる経験を持つ。その後、地方公務員事務職(枚方市役所)・国立科学館勤務を経て、国内でも稀有なフリーランスの科学コミュニケーターとして活動中。展示プランニングや科学実演の実施・監修、大学講師やイベントファシリテーター、サイエンスライティングなど様々な仕事をこなす。著書に「宇宙・天文で働く」(ぺりかん社)
