革新型トナーの価値は環境配慮だけにあらず――第53回日化協技術賞 環境技術賞 花王【受賞者に聞くプロジェクトの秘訣】
2022/06/28
連載の目次
- 環境技術賞 花王
- 技術特別賞 DIC
Chematelsでは新連載「受賞者に聞くプロジェクトの秘訣」をスタートします。社会的に定評のある賞を受賞した企業・団体の担当者に、受賞対象となった取り組みの「秘訣」を聞き、読者の皆さんに伝えていきます。
身の回りのあれこれを彩る印刷技術にも、二酸化炭素の排出量削減に向けた取り組みの波は押し寄せています。そんな中、印刷時の二酸化炭素排出量を大幅に削減できるという画期的なトナーが、花王のテクノケミカル研究所によって開発されました。2020年度の第53回日化協技術賞(概要は末尾参照)で環境技術賞が贈られたこの技術が生み出された背景と、開発されたトナーの特徴がもたらす大きな価値について、開発担当者の村田将一さんに話を伺いました。
トナーを用いる印刷に、エネルギー消費の課題
私たちが印刷と聞いて頭にまず思い浮かべるのは、家やオフィスで使う小型プリンターの姿でしょう。市販される小型プリンターの多くが、インクを印刷物に吹き付けるインクジェットプリンターか、粉末状のトナーを印刷物へと定着させるレーザープリンターです。特に印刷頻度の高いオフィス用途であれば、トナーを使ったレーザープリンターを使っているところが多いのではないでしょうか。

図1:レーザープリンターには粉状のトナーが使われている。写真はイメージ
レーザープリンターは、印刷対象に転写したトナーを熱で溶かして定着させることで印刷する方式となっています。トナーを溶かすには必ず一定の温度まで熱を加える必要があり、ここに多くのエネルギーが使われます。二酸化炭素排出量を削減するためには、熱として使われるエネルギーの削減が不可欠でした。
この課題に対して大きな成果を上げたのが、花王が開発した新しいトナー「LUNATONE」です。印刷1枚あたりの二酸化炭素排出量を、現行のトナーと比較して一気に40%も削減できたという点が評価され、日化協技術賞の環境技術賞を受賞することになりました。
こだわりは「混ざらないけど、分かれない」
新型トナー「LUNATONE」が持つ一番の特徴が、トナーの印刷物に対する圧倒的な低温定着性です。
これまでも業界各社が、環境負荷低減を目指して低温でも定着するトナーの開発を進めてきました。しかし、低温で定着させるためにトナーの粘度を下げると、どうしても保管や輸送の際にトナーの粉同士がくっつきやすくなるのです。定着性と保存性のトレードオフは、トナー開発における積年の課題でした。

図2:定着性と保存性の関係。右側ほど定着温度が、また上にあるほど保存性が高い
(画像提供:花王)
「LUNATONE」がこの課題をクリアできた理由に、“理想的な粒子”の開発に成功した点があります。トナーの主成分はバインダー樹脂と呼ばれる高分子化合物です。「LUNATONE」の粒子を拡大してみると、溶ける際の“起爆剤”として機能する結晶性ポリエステルが中に散りばめられており、外側は粘度の高いポリエステルで殻のように覆った構造をしています。
「開発に先駆けてチーム内で突き詰めて考えた理想の姿が、この『コアシェル構造』でした。ただし、開発は本当に難しいものでした」と、開発担当者の村田将一さんは振り返ります。

図3:開発チームが理想としたコアシェル構造を持つトナー粒子の模式図。Tgはガラス転移点といい、冷えて硬質になる温度を指す
(画像提供:花王)
水中でナノメートルサイズの原料を次々と凝集させる「ケミカル法」と呼ばれる手法を用いて製造されるトナー粒子では、粒子表面を覆う高粘度ポリエステルに最後の工程で熱を加えて滑らかにします。当初は、粘度が違うとはいえ、同じポリエステルでできた“殻”と“中身”が混ざり合ってしまい、失敗してしまいます。開発チームのすぐ隣で研究するバインダー樹脂の研究グループに、「熱を加えても混ざらない原料」を開発してもらうことで難問をクリアしたのですが、次のハードルはすぐ後に待ち構えていました。
ブレイクスルーは社内の風通しから
課題を一つ克服した開発チームに立ちはだかった次の課題は、殻が剥離してしまうというものでした。「混ざらないということは、それぞれの接する面で剥がれやすくなるんです。当たり前ですが、それでは困ります。そこで助けてくれたのは、花王が持っていた“界面制御技術”でした」

図4:シェルの剥がれのないトナー粒子の開発。粒径は5μm程度
(画像提供:花王)
花王は、言わずと知れた洗剤や柔軟剤だけでなく、農薬や住生活環境などのさまざまな分野において、物の境界面の物性に関する界面制御技術を研究開発しています。社内に蓄えられた界面制御技術の知見を応用できたことが、一番のブレイクスルーにつながったと村田さんは話します。
「社内の誰もが手を挙げれば参加でき、情報共有や発表ができる会議体があるのです。近くには基礎研究専門の研究所もありましたし、気軽に研究所の枠を超えたコミュニケーションを取れる関係が整っていました。社内のあちこちにすごい技術が転がっていたとしても、ちゃんと取りに行って活用できるかは別問題です。コミュニケーションの垣根を取り払ったような環境を整えてもらえていたことは、大きな助けになりました」
アドバイスを受けては試作を重ね、社内に蓄積していた知見を合わせていくことで、ついに理想の姿を持ったトナーを完成させることができたのでした。

図5:定着性と保存性の関係を示した図2に「LUNATONE」を加えたもの。性質の違いが一目瞭然
(画像提供:花王)
狙っていた価値だけでなく、想定外だった価値も生まれた
圧倒的な低温定着を実現させた「LUNATONE」ですが、いざ作ってみると当初の狙いであったエネルギー使用量の削減以外にも、価値を見いだせました。その一つがトナーの使用量削減です。
「これまでのトナーでは、定着した後の印刷物を拡大してみると、粒の形を留めているものが多く見受けられました。これだと印刷物の下地が透けてしまいます。しかし、『LUNATONE』は定着時にきれいに溶けて印刷面を覆い尽くしていました。そのため、同じ濃さを出すためのトナー量が少なくて済みます。約40%もトナー使用量を減らすことができました」

図6:定着時の広がりかたを比較する拡大写真。現行トナーに比べLUNATONEは溶け広がる
(画像提供:花王)
また、低温で一気に溶けるため、印刷速度を向上させることにも成功したのです。印刷速度を上げても同じ品質を保ち、さらにはトナーの使用量も減らせるとは開発チームも想定していませんでした。「社内で製品を発表するときも、恥ずかしながらここまでは想定しておらず…と正直に話しました」と、村田さんは笑います。
新たなトナーから描く、将来ビジョン
「LUNATONE」の持つ低温定着という特性は、新たな市場の開拓にも関わっています。昨今では地産地消を目指すようなコンパクトな経済活動が注目されるようになりました。少量多品種の商品に、自前でラベル印刷を施したいというニーズは増えています。しかし、レーザープリンターでは熱に強い紙などの素材にしか印刷できないため、どうしても印刷は専門業者に頼らざるを得ない場面も少なくありません。その点、「LUNATONE」の持つ低温定着の特性を生かせば、熱に弱いポリエチレンなどの軟包装フィルムにも小型のレーザープリンターですぐ印刷が可能になります。

図7:ポリエチレンフィルムへの印刷例。「LUNATONE」では溶かさずに印刷できる
(画像提供:花王)
市場規模が大きなラベル・パッケージ印刷分野において、新しい価値を提供できるはずだと村田さんは力を込めます。
「地元の園芸高校さんの協力をいただいてラベル印刷を試してもらうなど、実用化に向けた取り組みも始めています。すでにトナーの基本的な特性はクリアしていますし、印刷の際の温度をマッチングしたプリンタであれば問題なく印刷できます。ただし、実際にプリンタが製品として市場に出るまでには様々な印刷耐久性などの評価・改善が必要になります。現在はプリンターメーカーと更なる協業を進めているところです」
日化協技術賞とは
日本化学工業協会(日化協)は、優れた化学技術の開発や工業化によって化学産業ならびに経済社会の発展に寄与した事業者を表彰する「日化協技術賞」を設けています。1968年に創設されたこの賞では現在、化学に関連する事業者から業績を公募し、優れた業績に対して総合賞・技術特別賞・環境技術賞の三つの賞を贈り、表彰しています。
本田 隆行(ほんだ たかゆき)
科学コミュニケーター 神戸大学大学院 自然科学研究科 地球惑星科学専攻修了(理学修士) 。大学時代の専攻は地球惑星科学。大学院時代に探査機「はやぶさ」理学ミッションに携わる経験を持つ。その後、地方公務員事務職(枚方市役所)・国立科学館勤務を経て、国内でも稀有なフリーランスの科学コミュニケーターとして活動中。展示プランニングや科学実演の実施・監修、大学講師やイベントファシリテーター、サイエンスライティングなど様々な仕事をこなす。著書に「宇宙・天文で働く」(ぺりかん社)
