プリンティングが診断・創薬・再生医療を革新する【インクジェットが社会を変える 第6回】
2025/08/21Chematelsの連載「インクジェットが社会を変える」も、いよいよ最終回を迎えました。これまで、ファッション、ものづくり、エレクトロニクスと、インクジェット技術がさまざまな産業で変革を起こしている様子を追ってきました。最終回となる今回は、その応用領域の中でもとりわけ特徴的で先進的な分野である「医療」に光を当てます。インクジェット技術の「ピコリットル単位の液体を、非接触で、正確な位置に配置する」という特性は、診断・創薬・治療といった医療のあらゆる側面で、従来技術の限界を超える可能性を秘めています。本稿では、具体的な企業の取り組みを交えながら、医療の高度化を支えるインクジェット技術の最前線と、それがもたらす未来像を描きます。
目次
本連載で扱う項目
- 第1回 インクジェット技術
- 第2回 ファッション・テキスタイル市場の変革
- 第3回 デジタルファブリケーション
- 第4回 3Dプリンティングへの応用
- 第5回 電子工学におけるプリンテッド・エレクトロニクス
- 第6回 医療におけるバイオ・プリンティング
※変更となる場合があります
インクジェットの精密非接触技術が医療を革新する
インクジェット技術が持つ「必要なものを、必要な場所に、必要な量だけ、非接触で精密に配置する」というコア機能は、医療・ライフサイエンス分野でも真価を発揮します。インクジェット技術は現在、これらの分野における「塗布」「分注」「積層」などのプロセス技術として使われ、診断薬の製造から再生医療まで応用が広がっています。
従来、医療分野での微量サンプルの精密な取り扱いは大きな課題でした。インクジェット技術はこれを非接触・高速・デジタル制御で実現するものです。アナログ工程を置き換えることで製造効率の向上や高価な試薬のロス削減に貢献します。
さらに、型やマスクが不要でデジタルデータから直接的に制御できるため、個別化医療やオンデマンド生産とも好相性です。バイオマテリアルや細胞といった多様な“インク”を使い分け、診断キットから立体組織の作製まで、急速に応用の一途をたどっています。
試薬のロスや塗布量のばらつきの課題を解決 ― 診断・検査
「診断・検査」の領域では、インクジェット技術が製造プロセスに大きな変革をもたらしています。コロナウイルスやアレルゲンの有無を調べる迅速検査キットでは、性能を左右する抗体試薬を、メンブレンとも呼ばれる膜の上に極めて精密なラインで塗布する必要があります。しかし、従来のシリンジ式ディスペンサーと呼ばれる装置やスクリーン印刷機では、この塗布工程における試薬のロスや塗布量のばらつきが大きな課題でした。
この課題に対して、インクジェット技術は解決策を提供しています。装置メーカーのマイクロジェットは、毛細管現象などを利用した検査手法であるイムノクロマト法に対応した試薬ライン描画専用のインクジェット装置を製品化しました。高価な試薬の無駄を大幅に削減でき、診断薬メーカーは高感度かつ再現性の高い検査キットを、従来よりも優れたコスト効率で生産できるようになっています。
高速スクリーニングと生体に近い環境での薬効評価に貢献 ― 創薬支援
創薬分野では、インクジェット技術が化合物の高速スクリーニング、それに生体に近い環境での薬効評価という異なる二つの重要なアプローチを支援しています。
一つ目の化合物の高速スクリーニングでは、インクジェット技術が「超微量分注」を実現させています。創薬初期のスクリーニング工程において、従来の手法では微量すぎて限界のあったピコリットル(1兆分の1リットル)からナノリットル(10億分の1リットル)の量の化合物をマイクロプレートへ高速注入し、高価な試薬のロス削減と開発の高速化を両立しています。

図1:インクジェット技術を応用した超微量分注装置。創薬候補となる化合物をナノリットル単位で正確に分注する
(画像提供:日本HP)
二つ目の、生体に近い環境での薬効評価の領域では、インクジェット技術が「バイオプリンティング」に応用されています。生きた細胞という非常に複雑な液体を扱う高度な技術といえます。リコーは独自の「バイオ3Dプリンター」で、「ミニ臓器」とも呼ばれるオルガノイドをヒト由来の細胞で作製し、精度の高い薬効評価を支援しています。創薬研究は、より生体に近い環境で薬効を評価する段階に進んでいるといえます。
生体組織の三次元作製に挑む ― 再生医療
上記のバイオプリンティングは、究極の応用先といえる「治療・再生医療」にも展開されています。これは、患者自身の細胞を用いて、人体に移植可能な組織そのものを作製する試みです。
この技術の鍵は、細胞にダメージを与えないピエゾ方式のヘッドと、細胞を生かす足場となるバイオインクにあります。現在は皮膚や血管といった比較的単純な構造体の作製が中心となっています。この分野では、大阪大学などが立体組織の作製に挑んでいます。インクジェット方式を含むさまざまなアプローチが複数の研究機関などで模索されており、未来の医療に向けた研究開発がしのぎを削っています。

図2:インクジェット技術を応用した人工皮膚作製
(出所:Jie Xu らの論文“Advances in the Research of Bioinks Based on Natural Collagen, Polysaccharide and Their Derivatives for Skin 3D Bioprinting”(Polymers(Basel). 2020 May 29;12(6))を参考に作成)
ものづくりの新たな地平をインクジェットが拓く
本連載では、インクジェット技術がテキスタイルからエレクトロニクス、そして医療に至るまで、さまざまな分野で変革の起爆剤となっている状況を追ってきました。これらの事例に共通するのは、インクジェットが「アナログな大量生産」から「デジタルな個別最適生産」へと、ものづくりのパラダイムシフトを促している点です。
医療分野では、創薬や診断の領域での応用だけでなく、個別化医療や再生医療といった未来の医療へとつながる道が見えはじめています。こうした動きは、インクジェット技術がもたらす「ものづくりの再定義」にほかなりません。
インクジェット技術の進化は装置単体では完結せず、「材料×装置×プロセス制御」という三位一体の統合設計が不可欠です。材料の革新を担う化学業界と、装置の進歩を実用化に結びつける技術者、プロセス制御の方法を新たに設計するエンジニアといった各応用分野のプロフェッショナルたちこそが、次なる製造革新の担い手といえるでしょう。本連載が、その可能性の一端に触れるきっかけとなれば幸いです。
参考文献
- マイクロジェット「ライフサイエンス応用事例」
https://www.microjet.co.jp/research/application/com_05/ - マイクロジェット「ライフサイエンス専用インクジェットヘッドとは?」
https://www.microjet.co.jp/research/commentary/com_01/ - フォーディクス「イムノクロマト法試薬の作り方」
https://www.fordx.co.jp/immunochromatography/howtomake.html - SCIENION “How Picoliter Dispensing is Transforming Scientific Research and
Innovation”
https://www.scienion.com/blog/how-picoliter-dispensing-is-transforming-scientific-research-and-innovation/ - HP「ライフサイエンス ディスペンサー」
https://jp.ext.hp.com/printers/digital-presses/sps/life-science/ - NIP 27 and Digital Fabrication 2011“Thermal Inkjet System to Enable Picoliter Dispense of Pharmaceutical Compounds”
https://library.imaging.org/admin/apis/public/api/ist/website/downloadArticle/print4fab/27/1/art00044_1 - 産総研マガジン「オルガノイドとは?」
https://www.aist.go.jp/aist_j/magazine/20250305.html - リコー「ヘルスケア事業の戦略」
https://jp.ricoh.com/-/Media/Ricoh/Sites/jp_ricoh/IR/events/2019/pdf/r01q1_5.pdf - リコー「バイオ3Dプリンティングテクノロジー」
https://www.ricoh.co.jp/about/business-unit/bio-medical/bio-3d-printer - Materia Japan 第57巻 第 4 号(2018)「バイオプリント技術を応用した医療・創薬研究」
https://www.jim.or.jp/journal/m/pdf3/57/04/164.pdf - 大阪大学 2023年10月11日発表「細胞など柔らかな構造物の3Dバイオプリント新手法」
https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2023/20231011_3 - STI Horizon, Vol.02, No.01「デジタルファブリケーション・医療応用のHorizon ~3Dデジタルデータの活用とバイオファブリケーションの進展~」
https://www.nistep.go.jp/activities/sti-horizon%e8%aa%8c/vol-02no-01/stih00016 - Jie Xu et al.2020“Advances in the Research of Bioinks Based on Natural Collagen,
Polysaccharide and Their Derivatives for Skin 3D Bioprinting”
https://www.mdpi.com/2073-4360/12/6/1237
林駿佑(はやししゅんすけ)
メーカー勤務。修士(理工学)。大手メーカーに技術職として入社後、物性評価・プロセス開発の業務を行い、開発業務以外にも商品企画や品質保証業務に携わる。画像判定技術の開発を進めていく中で、「ものづくり×デジタル」の領域に強い関心を持ち転職。現在、製造現場のデジタル化とデータ分析・活用に取り組んでいる。
